2023年02月11日

こどもたちの巣立ち



2月8日 次男の引っ越し。

今までいろいろな手配や準備をして、家から出す前提ですべてのことをやってきたくせに
いざ、その日になったら、ああまだわたしは何の覚悟もしていなかったんだと思い知らされるかんじで
次男を送り出しました。

寮生活なので支度するのは身の回りのものばかりで、
それをわたしのマツダ3にぎゅうぎゅうに詰め込んで、静岡から大阪まで。

寮についたら荷解きをして、足りないものを買ったりセットしたり、あれこれして、
わたしは6時に帰路につきました。

大阪、遠いですね。
でも
よくね、現場が遠くても、通っているうちにだんだん距離感が縮まってくるでしょう?わたしは、そのくらい通っちゃおうかなと思っていたりもしています(笑)

だがしかし、そこのところの距離感が縮んだとしても、この、いつものスペースに彼がいないという喪失感が消えるわけではないのです。

長男が独り立ちをした時もそうでした。
むしろ、
長男は大学までわたしのもとにいて、社会人になってから上京したので、なんとなく
「ああこのひとはもうきっと、帰ってきてまた一緒に住んだりはしないんだろうな」
という気がしていて、彼に対してのほうが、ひどかったかもしれません。

それでもやっぱり今回も、「もう大きくなっちゃったんだな、近くにいて、ささっと手を出すことが叶わなくても、なんとかできるくらいに」
という達成感と、ほんのちょっとそれより多めの喪失感はあります。

ふしぎなもので
こういう状態になるとゆらゆらと

わたしの育て方、これでよかったのかな?

という思いが湧いてきます。

思い出すのは、アルバムに閉じておくようないわゆる『思い出』ではなくて、
日常のなかでわたしが「わかっていながら子供にしてあげなかったこと」とか、
「ちょっと広い心があれば許したのに、我慢させちゃったこと」とか
「ひどく叱りつけた」こととか
そんなことばかりです。
ひとりでやっていくことになって、一緒に買い物に行って、これからの生活に必要なものをあれこれ選びながらニコニコしている息子たちを見て、
毎回泣きそうでした。
持ってるんなら、その場で1000万円ポーーンと渡して、
ほんとごめんね!オカーサンこういう育て方しかできなかったの!
と言いたいくらいの気持ちになりました。前回も、今回も。
まあ、持ってないから渡さないけど(笑)


巣立って数日、
スーパーでお菓子を選んじゃってたり
献立を肉がちにしようとしちゃってたり
米を研ぐときに何合にするか考え込んだり
わたし用に買ってきたオレンジジュースを「もう隠さなくてもいいんだ」と思い至ったり
夜中に遊んでいて帰りみちのコンビニでアイス買っていかなくていいんだと気がついたり
その都度、
寂しくなっています。早く慣れたい(笑)

いまわたしは
そういう喪失感とか育てちゃったことへの「達成したからわたし用なし」感とか、そんなものをたくさん抱えています。
でも、その感覚よりほんの1ミリグラムだけ、
期待に胸を膨らませて新しい環境に飛び込んでいった息子(たち)が誇らしく、応援する気持ちが多いです。だから、救われてる(笑)

わたしはどうだったかな、と、思い起こせば、わたしだって一人暮らしを始めたとき、
これから一人でやっていくという全く未知のことへの不安と期待とか
新しい人間関係の構築に必死で、親の気持ちにまで思いを寄せられていませんでした。
親を思いやるどころじゃなかった。パパママ、きっとちょっと寂しくて心配してくれていたんだよね?ほんとにごめんね。あ、そうだ墓参りに行こう、ってなりました(笑)
幸いわたしは、パパやママに比べて騒ぐほうなので、息子に平気で
「寂しくて死んじゃう」と言えるタイプ。着信拒否・既読スルーされない程度に粘着しようと思っています。


こどもたちは変わっていく、わたしの生活も変わっていく。
わたしは変わらない。変わり続けるわたしは変わらない。そんなかんじです。
大学の時にだいすきだった、第三舞台の鴻上尚史みたい。
『第三舞台は変わらない。第三舞台は変わり続ける』
ってね。そんなかんじです。