2019年02月28日

「死にたい夜にかぎって」とアンチ文学少女の歴史


死にたい夜にかぎって


という本を読みました。


「君の笑った顔、虫の裏側に似てるね」とクラスのマドンナに言われてからうまく笑えなくなった男の話。

ってもうそれ絶対に面白いヤツやん、と(笑)

実は最近、まったく活字が読めなくて、
買ったり借りたりした本がたまりにたまっているのです。なんとなく、本に取りかかれない。そんな気分がずっと続いています。

映画「チワワちゃん」を観て、また読みたくなり買った岡崎京子のマンガですら、
ずっと塩漬けにしていたほど活字が読めなくなっていました。

それでも読んだこの本は
退屈なような、でもどこかずれているような、そして全体的に生産性のない生活を、
汚いものや安っぽいものでうめて、
普通に使う言葉と表現で、
滑稽で、優しく綴っていて、
わたしはたまにんふふふふふふふふ、と笑い、
最後に少しだけ涙が出ました。

簡単に読めるので是非オススメします(笑)



そもそも
わたしはもともと読書が好きなわけではありませんでした。
本を身近に置いて育ってきていなかった。
本をよく読むようになったきっかけは、
どう考えてもミーハーでチャラい奴だとちょっと距離を置いていた高校のクラスメイトが
何かの推理小説のことを話していて
それが何かものすごい衝撃だったからです。
読み始めたのは「横溝正史」
なぜなら、当時テレビで「Gメン75」のあとに古谷一行が金田一耕助役をしている「横溝正史シリーズ」が放映されていて、
ちゃんと読めなくてもテレビでフォローすればいいや、と思えたからです(笑)
なのに、
あの独特の陰鬱な小説の虜になり、
そうこうしていたらバブルな感じで角川文庫が攻めてきたり、大江健三郎は佐野元春に似ていたりで(笑)
わたしはとてもたくさん本を読むようになりました。

遅ればせながら太宰を読んだのもそのあたり。
燃えるような恋心も
経済的な安定不安定も
燃え尽きたモノの悔しさ悲しさも
満たされても満たされても消えない欠落感も
何一つ実際に感じたことのないコムスメは
ただひたすらそれに憧れていました。
できることなら一回、心中してみたい、とさえ思いました。

時を経て

結婚して主婦になり
友達が勧めてくれた小池真理子の「恋」を読んだ時は、
股間から崩れ落ちるような切なさで
しばらく他の本を読まずに余韻に浸ろうとさえ思いました(笑)

不思議なもので同じ頃
もう一度読み返した「人間失格」でわたしは
「は?この人何言ってんの?何にもやらねえでグダグダグダグダ。そんなことどうでもいいから、仕事ねえなら洗濯物くらい畳めや、ってなるよねこういう男」
みたいに思ってしまいました。

その時の立っている場所
そして、立ちながら考えてる事。

そんなコンディションで
読んだ本
観た映画
聞いた言葉
目の前に立ってるハンサムでさえ
変わってしまう。

「人間失格」は変わらない。
変わったのは佳世子です。。


同じように
両方好きだったムラカミ。
龍と春樹。
大学の頃は
龍は肉
春樹は薬草
と言って使い分けていました。
息継ぎをしない覚悟で龍を読み。
胸焼けを治すように春樹を読みました。
でも
結婚して子供を産んで父母が死んで離婚して読んだ春樹にわたしは
言葉っツラとヒトの生き死にで遊ばないでほしい。
と、勝手に苛立ってしまいました(笑)
それに比べ
殺人はあるけど滅多に自殺は無く、いうたら歯の間に挟まった肉片をどうやって舌でせせりとって食べたかを克明に表現しようとする(笑)そんな村上龍に、わたしはもう一度のめり込んでいきました。
去年読んだオールドテロリストはわたしの家宝です(笑)



何が言いたいかっていうと

自分のコンディションで
大好きだったモノや人が大嫌いになる。
仕方のない事だけど
少しさみしいこと。

そして
今回読んだこの本は
きっとこの先また読んだとしても
わたしは同じところで笑う気がするってこと。

わたし達は滑稽なものが好き。
かっこいいものよりも安心するし
それは時には物悲しくて
切なくて
とてつもなく優しくて
下手したら「品」すら感じてしまうから。  


Posted by カヨ at 07:03Comments(0)ブログ思う日々読む