2016年04月16日
熊本の地震 「心配」という曲者
わたしの母は ALSという難病でした
病名も告げたし
その病気が進行するとどうなるのかも
母には告げてありました
家で呼吸が困難になり意識がなくなり救急車で運ばれて、
脳死の状態で2カ月病院で過ごし
そのまま亡くなりました
家で倒れるまでは通院しながらひっそり家にこもっていました
もともと、ものすごく華やかで、美人で、面倒見が良くて
周りに人が集まってくるような人でしたので、
お見舞いに来てくれる友人知人がたくさんで
当時生まれたばかりの長男を抱え主婦だったわたしは
呼吸がきついのと舌が委縮してきてるのとでうまく話せない母に代わって、
みなさんのお相手をしていました。
お見舞いに来る人は
あらかじめ、わたしが断っているのに無理やり来るか、
何の予告もなしに突撃して来る人でした。
「ほんとに心配してたのよ、
でもよかったげんきそうね。
顔色もいいし
安心した
大丈夫よ、
がんばって」
ほとんどの人が
そう
母に言って帰っていきました。
あの時のわたしは
もうじき母を失ってしまうかもしれないことも
どんどん、日に日に悪くなっていく母のことも
もっと構ってあげたいのにできないわたしの苛立ちを一身に受け止めてしまっている3カ月くらいの息子のことも
どうやら浮気をしている当時の前夫のことも(笑)
すべての悲しさと不安と寂しさを
大きな怒りにすり替えていました
そうでもしないと
潰れてしまいそうだったからです
それもあり
お見舞いにくる母の友人知人が
大嫌いでした
このひとたちは
自分のためだけに
ちゃんと喋れず伝わらないので呼吸が苦しいのに何度も言いなおす母に
大丈夫?
といい、
よそいきの顔で頑張って笑う母に
元気そうで安心した
というのです。
自分が、母の状態を知りたいためだけに
知って、安心したいためだけに
「心配」
が、いかに曲者か
わたしはその時にものすごく考えて
それ以来気を付けるようになりました(なるべく)
今回の
九州の地震もそうです
身内や、大きくかかわっている人たちならまだしも
知人の所在を「心配だから」とにかく確かめようとする人たち
その、今大変なことになっている「知人」は、
その人たちを安心させるために、「大丈夫だよ」と、いちいち返事をしなくてはなりません。
その「知人」には、なんの助けにもならないのに。
心配って
自分が安心したいがために動くこころの状態だったりもするのです。
もちろん、
そんな心配ばかりではないけれど
わたしは、
心配からくるアクションを起こす前に
考えてねと
おもうのです。
以前、わたしの友人Aが、癌になり、療養することにったのですが、
それを知った友人Bが、わたしに
「ねえ、Aは大丈夫なの?
心配で連絡取りたいから、
カヨコから、Aに、わたしに電話するように言ってくれない?」
と、
言ってきたことがありました。
えー(笑)
『わたしが安心したいから、癌になったAから連絡をよこしてほしい』
と、
Bは言っているわけです。
もちろんわたしは断りました
自分で聞いたらいいよ、そんなに気になるなら。
といいました。
もちろんAも、すっかり良くなって今は元気ですが(*´ω`*)
静岡くんだりで
阪神淡路や 東北や 熊本の地震をどう思うか
それは、人それぞれだと思います
親類のいる方も大勢いるし
抜き差しならない感じで、商売的に取引されてる方もいらっしゃるでしょうし
でも、そうではない人たちは
わたしはすくなくとも、当地で難儀されてる人たちに
余計な手間をかけたりするような「心配」はすべきではないと
思っているのです
フェイスブックでも、
ツイッターでも、
九州にゆかりのないような
そんな影響力のある友人数でもないような、
そんな人が
「みてみて」「こわいねー」的に、ネットニュースの貼り付けしてたりするのは
意味がないだけではなくて
ワイドショー好きなその心根を晒しているだけの、
みっともない行為
に、わたしは見えてしまうのです。
もちろん、ツイッターで、
現地から、道路の状況や緊急のことを発信している人に、
助けられている人もたくさんいるでしょうし
それはそれです。
心配なんて所詮、
そんなものが多い
そういう種類の心配は
自分の中で克服するしか
ほんとは解消法なんてないのかも。
今回のこの震災に関しては
静岡で、九州に親類などもいない程度のわたしたちは
心配心配いうなら「お金」であらわすのが一番ではないでしょうか。
ドライでパッサパサに思うかもしれませんが
そういうことだと思うのです。